1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
63
64
65
66
67
68
69
70
71
72
思い出に甘酸っぱさを加えて
————————

 水道の音、かわいらしい鼻歌、微かな甘い匂い。テーブルを通してキッチンを眺める薬利は、手で顔を支えながら思い出を遡る。

――。

「練習?」
「そうよ! お菓子作りの練習に付き合ってほしいの、食べて感想くれるだけでいいから」

 それはとある晴れた日の事。自分の親友もとい悪友である日向紗羅の幼馴染みの水無月祈に呼び出された薬利は、まさか彼女に頼み事をされるとは思いもしなかった。祈が料理上手とは前からよく知っているし振る舞ってもらう事だってあった、試食して感想を聞きたいとなると恐らく初めてだと薬利は思う。
 彼は構わないとは思っているものの、もし自分がはいと答えたら後から紗羅に怒られるのではないかと心配せずにいられなかった。なぜかというと、薬利は日向紗羅が水無月祈に対して恋愛感情を持っていることを知っているからだ。

「あー、沙羅ちゃんじゃダメなのか?」
「ダイエットでやめとくわって、だから薬利くんに頼ることしかできないの! お願いっ」

 彼は甘いものやお菓子には大して好きでもなく、かと言って嫌いというわけでもない。けれどここまで頼まれたことはあったのだろうか、この光景が珍しくて面白いと思った薬利は軽く肯定的な返事をして、祈の練習に付き合うことを決めた。

 お邪魔しますと共に玄関から上がり、そういえば祈ちゃんの家に沙羅ちゃんなしで来たのは初めてかもしれないなどと考えながら、薬利はとりあえず彼女についてリビングのある方へ進む。
 どうやら祈の親は仕事で今はいないらしい、つまりは二人きりだ。いくら友人でその気もないとは言え、お年頃な女の子の家にお邪魔することに対して多少の遠慮を感じた薬利は心のどこかでそわそわし始めた。そんな薬利の気持ちも知らずに祈は制服の上にそのままエプロンを着け、手を洗い必要なものを取り出した。

「じゃあ、ちょっと待っててね?」
「はいはーい」

――。

 時は冒頭に戻り、暇をしている薬利は立ち上がりキッチンの方へと歩み進む。アイランド式キッチンであったため、何をしているかを見ることは簡単だった。
 祈は手際よく包丁でリンゴの皮を剥き、それをくし切りにして更に細切りする、それから鍋にリンゴと共に砂糖やレモン汁などの調味料を入れて火をつける。

「俺には何か手伝えることないの?」
「うーんと、じゃあリンゴが柔らかくなるまで見ててくれる?」

 薬利はキッチンの中に踏み入り、きちんと手を洗った後に彼女の手から箸を受けとる。その間に祈はパイシートを取り出した、準備してある型にそれを敷いてフォークで生地の上に穴を開けた。すると彼女はパイシートの上にラップを敷き、そのまま冷蔵庫に入れる。特に料理やお菓子作りに詳しくない薬利はパイ生地を冷蔵庫に戻すことに疑問を持ったが、入れ直す事に意味があるだろうと判断しそのままリンゴの様子を見ていた。
 薬利がそう考えている時も、彼女は残りのパイシートを細いものに切り、その中から数本取って三つ編みにする。おそらく格子状にするためのものと縁を囲う用のものであろう。

 柔らかくなったリンゴを見て、この位で大丈夫だろうと判断した薬利はそっとコンロの火を止めた、鍋の中にあるリンゴは甘酸っぱい香りが食欲をそそる。あら熱を取っている間に少しだけでも盗み食いをしてみたらどうなるか、などと考えながら彼はリンゴをじっと眺めていた。

「ありがとう薬利くん! ついてだしこの中に入れて貰えないかな」
「はいっと」

 言われるがままに薬利は鍋の中にある物をボウルへ移し、そして祈にラップをかけられそのまま冷蔵庫へ。
 先ほどから疑問を思えた薬利はなぜわざわざ冷蔵庫に入れたのかを聞いてみると、祈は『パイシートは冷たいまま焼くとキレイになるのよ』と答えた。なるほどと呟く薬利を横に、彼女はオーブンを10分ほど予熱させた。

 頃合いを見て、祈は冷蔵庫からリンゴの入ったボウルや装飾用の生地などを取り出す。そしてリンゴをパイ皿の生地に入れる、それを入れ終えると彼女は格子状になっているパイシートを上に載せ、包丁で余分の生地を切り落とす。三つ編みにした生地を縁につけ、しっかりと固定するようにフォークで押さえつけた。最後は料理用の刷毛でパイ全体に卵黄を塗る、薬利はその手慣れた動きを感心しながらじっと見ていた。
 そしたらちょうどよくオーブンから「チン」という音が鳴り響き、予熱が完了したと二人に知らせる。落とさないように丁寧とオーブンの中にアップルパイを置いた天板を入れ、時間と温度を設定したあとはただ待つあるのみ。

「お疲れ様」
「えへへ、薬利くん色々ありがとうね!」
「どういたしまして。で、待ってる間はどうしよっか」
「そうだね、うーん……あっ! そういえば勉強で分からない事があってね、薬利くんに聞こうとしたの!」

 そう言って祈は自分の鞄から教科書やノートを取り出し、薬利に教えてもらうようにテーブルの上に物を広げた。年上だからという事もあって、祈はよく薬利や今ここにはいない紗羅に勉強を教えて貰っている。
 しばらくお勉強会をしていると、パイの香ばしい匂いが部屋辺りを漂う。時間的にもそろそろ出来上がりであろうと判断した二人は教科書を一旦片付けさせ、皿やフォークを取り出し並べた。そして待ちに待った「チン」という音に、ワクワクとパイを取り出し天板からテーブルへと移す。焼きたての薄白い煙に甘くてどこか酸っぱさを含む香りが立つ、胃袋を刺激するその匂いに口の中に溜まる唾液を飲みごみながら、食べられる温度になるまで待っていた。

 待っている間に思い出したかのように薬利はスマホを取り出し、カメラを開き祈とパイを写りこませるように姿勢を調整した。それを一瞬で理解した祈はパイの全体が見えるようにそれを少し傾けさせ、カメラに笑顔を見せた。

 『沙羅ちゃんにも送っとくわ』と言う薬利に、祈は 『お願いするね』と簡単に答えた後、丁寧に包丁でアップルパイを切り分け、二人の皿に切り分けられたパイを一個ずつ載せる。その裏で薬利はスマホで沙羅へのメッセージをポチポチと打ち込んだ、少し悪戯っぽく口角を上げて微笑む彼に祈はなにも気付かずに自分のスマホでパイを撮影していた。

「んじゃ、いただきます」
「いただきます」

 簡単な挨拶を終え、祈は少し緊張した顔で薬利の方を見る。恐らく感想を言うまで待ってくれるであろうと分かった彼は、パイにフォークを刺し一口サイズにものを口に運ぶ。サクッとする生地に甘酸っぱい林檎が口の中に広がっていき、そして飲み込む。

「うん、すごく美味しいよ。流石は祈ちゃんだね」
「よかったぁ……」

 すると彼女は安心したようにパイを食べる、うんうんと頭の中で改善点を探しながら賞味する。薬利は特にスイーツや甘いものには興味はないけれど、もし今日みたいに祈が作るのならなんでも食べれそうな気がした。彼が思うには、このアップルパイは今まで食べてきた数少ないスイーツよりも一層美味しく感じる。
 彼達が黙々と食べていると、玄関の方から「ピンポーン」という音が響いた。それを聞いた祈は口の中にあるものを飲み込み、誰だろうと考えながら玄関へと向かう。チャイムを鳴らした相手をなんとなく察した薬利は手を止めず、『やっぱり食べたい!』『えー?太っても祈は知らないよ?』『いいのいいの、ちょっとだけだから』と少し遠くから聞こえてくる会話をよそにまた一口とアップルパイを口へと運んだ。

「ん、美味しい」