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請配合服用
https://www.youtube.com/watch?v=yFkv2eAScpM

那面鏡子絕不能有個性。
那面鏡子絕不能是唯一。
以仿造那個名號來說,實在是太過優秀的傑作。

▼追記に考察あり(※集めた情報を個人的な見解で考察しています)

本家:長義作「山姥切」
堀川作:「山姥切国広」(写し)

新刀の祖とも呼ばれるほどの名工・堀川国広が足利滞在中足利城主長尾顕長の依頼を受け、顕長所有の備前長船
長義の刀を写して打ったものとあり、その出来が素晴らしく山姥切国広と呼ばれまた国広作中第一の傑作として名高い。
また、この堀川作の山姥切の出来が素晴らしく、本家にも銘を入れさせたとある。
国広作の中でも「山姥切」と号の方で呼ばれるのはこの刀くらいであり、それほど本家に劣らぬ傑作であった。

由素有新刀之祖稱號的名工.堀川國廣於滯留至足利時受足利城主長尾顯長所託,將顯長所有的備前長船、長義之刀加以仿造而成,由於其出色的成果而被冠以山姥切國廣之名,同時也被譽為是國廣作品中的第一傑作。此外也因其巧奪天工,而被本家加以入銘。國廣之作中能被加以冠上「山姥切」者頂多也就僅此一把,就是如此地不遜於本家的傑作。


長義作の山姥切は由来こそ定かではないが、本家が打たれた当初は山姥切退治による逸話によって出た名前かもしれない。
が、堀川の新刀時代は実際人斬りが行われていた時代であり、古刀のように化物の名の号を拝すことはない。
にもかかわらず山姥切と呼ばれる(写しとは言え本家と同じ号で呼ばれている、ということ。)
→「山姥退治なんて俺の仕事じゃない」「化け物斬りの刀ならともかく、写しに霊力を期待してどうするんだ」
これは堀川作の山姥切は号を拝しているだけ、と言うことなので彼の主張は最もである。

長義作的山姥切其由來雖沒有依據,但有可能是因為當初打造時有退治山姥的逸事所致。可堀川的新刀時代依舊是會進行斬人活動的時代,所以是不太可能像古刀一樣將妖怪之名做為名號敬拜。不過就算如此依舊起了「山姥切」這般的名字(雖說是仿造卻與本家起了相同的名號)
→「收拾山姥不是我的分內之事」「先不論斬妖之刀與否,怎麼能對仿造品的靈力有所期待呢」(譯按 : 言外之意的譯法)
只不過是堀川作的山姥切拜了其名,這樣的說法他本人便是最大的主張者。


ここで山姥切国広のキャラクターを象徴する最もなところは、「自身が写しとして打たれたことをめちゃくちゃに気にしているところ」である。
何故そこまで気にするのか。単純に来歴だけさらうと、幾人かの主を経て売り買いされたと言う経緯はわかる。
が、その来歴の中でそういう思考回路に行きつくとなると、有力そうなのは
「ああ…いやだな、消えたあとも俺は比較され続けるのか」と言う台詞から考えられる、"この山姥切国広を語る上で常に「山姥切の写しの国広」と言われ、彼自身を一つの作品として見てもらえたことがない"からかな、と思った。
まるでオマージュ作品のように、常に「※山姥切の写し」と言う注釈がついてまわる、と言うこと。
(オマージュは通常悪い意味で使われることはないが、山姥切国広を主観としてみればベースの作品紹介が抜けることはないので、比較されると表現するのもわかる)
刀を打たれて生まれた瞬間から、折れても尚記録として永遠に、山姥切と山姥切国広が人類から忘れ去られるまでずっとその注釈が呪いのようについている。だから消えたあとも比較され続ける、と言っているのかな…と。

此處是山姥切國廣此一角色最有象徵性的特點「十分在意自己是做為仿造品而被打造出來的」
至於為何會糾結到如此地步,只要細想其來歷與輾轉買賣過幾家人手之事便可窺得一二。
來歷中較能足以支持這種論調,其中有力的一項證據就是某句台詞
「阿阿......真討厭阿,就連消失了以後我都會持續被人拿來比較嗎?」
"談論到此一山姥切國廣的言談中經常被人稱為「山姥切的仿造品的國廣」,他自己經常不是被作為一個作品來看待的" 我覺得是如此
我是指簡直就像是致敬作品一般,常在身邊出現「※山姥切的仿造品」這樣的注釋。
(所謂致敬通常不含貶意,但以山姥切國廣的主觀來看就是無法脫離介紹做為其基礎的作品,會被比較的表現也就可以理解了)
刀從被打造而生的瞬間起,在折刀後其記錄依舊永遠流傳,直到山姥切與山姥切國廣被人們遺忘為止,那注釋將會如詛咒般如影隨形地跟著他。所有才會有消失後依舊會被比較這種說法......吧。


他の刀との決定的な違いは、山姥切が本家の写しであると言うことで、それはつまり唯一無二の存在ではない、と言うことにある。
山姥切国広は一振りしかないじゃないか、と言うことではなくて、完璧なほどのコピーなら人間でいう外見の個体差が衣装はともかく本家と彼にはないはず。他の国広兄弟と違うのは、彼らがその存在として作られたのに対して、山姥切は誰かを模して打たれた。存在確証の有無じゃない、名だたる名将に扱われた故のブランドじゃない。
たとえば同じ名前の加州清光が沢山いる、量産された同田貫正国とも違う。山姥切国広には個体差がない。その写しはあまりにも出来が良すぎて、本家にさえ銘が彫られたほどである。

與其他刀之間決定性的差異便是,山姥切是本家的仿造品,也就是說其並不是獨一無二的存在。
並不是說山姥切國廣並不只有一把,而是以完美的複製品來說就算是人類也會有外表或衣裝等在本家與他之間應該不存在的差異。與其他的國廣兄弟不同,比起他們是被作為一個存在而被製作,山姥切則是模仿某人而打造的。無關於存在證據的有無,或是被當作出名的名將來對待的自尊。
就算有著一大堆同名的加州清光,也與量產的同田貫正國不同。山姥切國廣則沒有這種個體差,正是因為其仿造地過於良好,以至於到連本家都雕上其銘所致。


仮に、本家山姥切が実装されてしまったら?この身も髪も眼も、本家のものではないのかと疑ってしまう。精巧に作られたコピーだから。もし瓜二つの顔が本家として現れたら、「お前は彼の兄弟か」ではなく、「お前は彼の写しか」と言われることになる。そうなるくらいなら顔は見られない方がいい。堀川が打ったと言うストライプのジャケットだけが彼を本家と分ける唯一の手がかりになる。しかしそれも、山姥切と言う名を取ってしまえば、国広第一の傑作ではなくなってしまう。

假使,本家山姥切真的實裝了呢?豈不是令人質疑這身型、頭髮、眼睛是本家之物嗎。由於是精巧的仿造品。假使本家帶著一模一樣的臉孔出現,也不會有「你是他的兄弟嗎」而是會被說成「你是他的仿造品嗎」。如果會是這種發展那看不見臉還好些。只有堀川所打這一「條紋外套」才是分辨他與本家間的唯一線索,但話也說來,如果取下山姥切這一名號,也就不會有國廣第一傑作了。

譯按 : 「這應該算是MIT桑自己心中私心用來區分的方式。」


服を汚すことで比べられず、オリジナルになれるのならどんなにいいだろう。誰かの装いではなく、汚れさえ自分だけのものになるならどんなにいいだろう。
山姥切国広を美しいと言えば、山姥切もつまり美しいのだろう、となる。自分を通して本家を見る。一生山姥切国広は、本家山姥切の美しさを宣伝して回る鏡なのだ。でも鏡が汚れて曇れば鏡に目が行く。鏡を見てもらえる。

不用玷汙服裝來分別,如果是原創的該有多好呢。不是偽裝成任何人,而是連髒污都是只屬於自己的話該有多好呢。
若山姥切國廣是美麗的代表,也就是說山姥切也是美麗的吧,就會如此。能過通過自己來看見本家。山姥切國廣的一生,簡直就是為宣傳本家山姥切的美麗而回轉的一面鏡子,但只要鏡面一髒目光也就隨之轉移,變得能看見鏡子本身了。


ただ…本家山姥切も恐らく、山姥切国広と同じわだかまりをもっていそうだな、と思った。
本家に銘を彫るほどの傑作が写しとして生まれ、片や国広第一の傑作とまで言われ、本家も大概山姥切国広とセットにされただろうと思える。実装されないとは思うが、されてしまったが最後闇の深さがおそろしい。

只不過我覺得......恐怕本家山姥切也與山姥切國廣有著同樣地不快感吧。
能被本家雕銘的傑作卻做為仿造品誕生,被片面地盛讚為國廣第一傑作,我覺得本家大概也跟山姥切國廣一同上機了吧。只是沒有實裝,假使實裝的話最後那黑暗之深沉可真叫人恐懼。


山姥切は本家を、国広は刀工を指す。例えば国広、は和泉守が堀川国広をそう呼ぶ。山伏国広は山伏と呼ばれる。
もし、上記のような(もしくは別の解釈から)山姥切国広推しのみなさんが「まんば」と彼を愛称で呼ぶのに彼を個としてみているよ、と言う願いが込められていたとしたらなんて…泣ける話だろうと勝手に深読みした。(単純に愛称なのはわかっているものの、もし?を考えてしまう解釈深読み野郎なので)
それからの足利展示で山姥切国広が多くの審神者から愛され声を掛けられていたのを聞いて、そこには彼しかいないと言うのがたまらなく感慨深いものがあった。
ソハヤとの会話の通り、願わくは彼が一つの刀としてそこに在れるならと思う。

山姥切是本家所給,國廣則是指刀工。假如說和泉守能稱堀川國廣為國廣。山伏國廣則稱為山伏。
假如說能像上述一樣(或是以別的解釋來說),由力推山姥切國廣的各位以「山姥」這樣的稱呼來將他當作個體,或是帶著這樣的願望的話......雖然是催淚的話題但還是擅自地深入解讀了一下。(我知道單純只是愛稱,但我個人就是會深度解讀到如果?狀況的傢伙)
另外,聽到從足利展示的山姥切國廣能得到眾多審神者的愛護之聲,讓我不禁為舞台上只有他而深深地感概。
就如同與ソハヤ的對話一般,希望他能做為一把刀而存在於那裡的話就好了。

譯按 : 回想29~~~~~~~