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むかしむかし、あるところに、ニナという美しい声の少女がおりました。
海辺の小さな村で暮らす彼女は、恥ずかしがり屋で臆病ですが、歌うことだけは、誰にも負けない自信がありました。
いつの日か異国の舞台で歌うことを夢見て、毎日毎日、海に向かって歌っていたのです。
しかしニナは、生まれてから一度も、この海の向こうへ行ったことがありません。なぜならこの村には、15歳になるまで海を超えてはならないという掟があるからです。

でも今日は、ニナがずっと待ち焦がれた15歳の誕生日。
皆が寝静まった真夜中。ニナは期待と不安を胸に詰め込んで、初めて見る海の向こうへ、ひとりで泳いでみることにしました。
するとそこへ、大きな帆船が近づいてきました。船の上では人々が歌って踊り、まるでお祭りみたいです。
その船首に、ひとり夜空を見上げる人影がありました。どうやら、異国の王子さまのようです。
美しい横顔、優しそうな微笑み。ニナは、ひと目で恋に落ちました。
その目には、もう海も月も星さえも映りません。ニナはずっと、彼だけを見つめていました。

ところが、突然の嵐に乗じて海賊たちが現れ、船上の人々に襲いかかったのです。
王子さまは臆せず剣を抜き、人々を守るため勇敢に立ち向かいました。しかし子どもを助けた衝撃で、荒れ狂う海へと落ちてしまいました。
ニナはとっさに海に潜り、身の危険も忘れて王子さまを探し出すと、必死に海岸へと引き揚げました。
……王子さまの呼吸は、既に止まっていました。
ニナは必死に息を吹き込みましたが、彼が目覚めることはありませんでした。
人々を助けた代償に命を落としてしまうなんて、そんなのあまりにも悲しすぎます。
だからニナは、静かになった夜の海岸でひとり、歌を歌いました。せめて王子さまが、安らかに眠れるように。
すると……なんということでしょう。それは奇跡か偶然か、その歌声に呼び寄せられるように、王子さまが息を吹き返したのです。
驚いたニナは、彼が意識を取り戻すのを待たずに、岩陰に隠れてしまいました。横顔ではない彼を見たとたん、ニナは急に恥ずかしくなって、声を失ってしまったのです。
やがて王子さまは、通りがかった村人に助けられ、どこかへ行ってしまいました。
あぁ、一言だけでも声をかければよかった。ニナはとても後悔しました。

あれから王子さまは奇跡的に回復し、無事に異国へと帰っていきました。
ニナは結局、王子さまに一度も声をかけることができませんでした。どうして自分は、こんなにもいくじなしなのでしょう。
「やぁニナ、久しぶりだね」
落ち込む彼女に声をかけたのは、行商人のアラムでした。
世界中を旅するアラムですから、ニナは子どもの頃から、彼の"異国のお話"が大好きでした。
兄のように慕うアラムに、ニナは王子さまのことをすべて打ち明けました。
するとアラムは、大きな荷物の中から一通の便箋を取り出しました。それはなんと、王子さまからの"舞踏会の招待状"でした。
異国へ帰ってからの王子さまは、急に歌劇を好んで嗜むようになり、ついには世界中の歌姫を招いて舞踏会を催すことにしたらしいのです。
「それで色々な縁が重なって、一応人脈の広い商人の僕がこの国の歌姫を探す大役を仰せつかっていたんだけど……ちょうどよかった。ニナ、行っておいでよ」
こんな"渡りに船"があるでしょうか。ニナは今度こそ、王子さまに声をかける決意をしました。
それからニナは、さらに歌の練習をがんばりました。この歌さえ聞いてもらえれば、王子さまだってきっと振り向いてくれるに違いありません。
そしてニナは大きな蒸気船に乗り、ついに憧れの異国に向けて出港したのです。

王宮での舞踏会は、華やかに賑わっていました。
ニナは姉たちからもらったアクセサリーと、アラムから贈られたドレスを身にまとい、王宮へ足を踏み入れます。
王子さまに会いたい。ただその一心で、遠く異国から独りでやってきたのです。
しかしこんな場所に来たことなどありませんから、ニナはだんだん心細くなり、不安になってきました。
それでも、ニナはくじけませんでした。自分に自信のないニナですが、自信のある歌だけは、誰にも負けないように毎日毎日、いっしょうけんめい練習してきたのですから。
そしてついに王子さまを見つけましたが……彼のその瞳には、既にひとりの女性しか映っていないようでした。
彼の視線の先、珊瑚のように美しい女性がひとたび歌うと、誰もが息を呑み、その美声に酔いしれてしまいました。
それどころか、小さな村しか知らないニナにとっては、恐怖すら覚えるほどでした。あまりにも世界が違いすぎるのです。
村で一番上手いと言われた自分の歌なんて、所詮は狭い海の中でのお遊びでしかなかったのだと、残酷な現実を突きつけられたかのようでした。
急に自分が惨めになり、ニナは歌声すら出せずに走り去ってしまいました。
ニナが庭園で泣いていると、誰かが手を差し伸べてくれました。
「あなた……どうしたの? 転んじゃったの?」
それは、先ほど歌っていた珊瑚のような女性でした。
こんなに優しくて、美しくて、そして本物の歌が歌えるなんて。ニナは、何ひとつ勝てませんでした。悔しいほどに、素敵な女性だったのです。
ニナはどうしてもその手を取ることができず、また逃げ出してしまいました。

自分がいくじなしだから、その間に王子さまは運命の女性に巡り合ってしまったのです。
もっと早く声をかけていれば。いっそ、彼を助けなければ……。
どうしようもない後悔が波のように押し寄せて、ニナの心はぐちゃぐちゃになってしまいました。

ニナは、海を超えてたくさんのことを知りました。
憧れた世界は、こんなにも広くて残酷だということ。
自分なんて、その中の小さな一部でしかないということ。
そして、どんなに努力をしたって、本当の才能には敵わないということ。
あんなに大好きだった歌も、異国も、もう何もかもすべて、大嫌いになってしまいそうです。

それでもニナは、王子さまのことだけは、どうしても嫌いになれませんでした。

ニナが泣きながら崖の上を歩いていると、足元の裂け目に気づかず、そのまま海へ転落してしまいました。
けれどもニナは、静かに目を閉じました。もうこのまま、泡になって消えてしまおう。自分なんて、何の取り柄もないのだから。
その時でした。遠くで聞き覚えのある声がするのです。
驚いたニナが目を開けると……そこにいたのは、大好きな王子さま。気づけば彼の腕の中でした。
「無事でよかった、大丈夫かい?」
もう横顔ではありません。あの王子さまが、今度は自分を助けてくれたのです。
ああ、やっぱり私は、この人が好きなんだ。ニナは改めてそう思いました。
「見かけない子だな……ああ君、この子の手当をしてくれないか」
王子さまはニナを岩礁に優しく座らせると、使用人を呼び寄せて、その場を去ろうとしました。
王子さまは当然、ニナのことなど覚えておりません。ですがニナは、彼に会うためにここまで来たのです。
それでもニナは、王子さまを見つめると、やはり声を出すことができませんでした。
ああ、終わっちゃうんだ、この初恋が。自分はいつまでたってもいくじなしだ……そう思った時。

少し強い波がニナの背に押し寄せて、思わず一歩、王子さまのほうへ踏み出してしまいました。
まるで海が、彼女の恋を後押しするように。

声をかけるチャンスなんて、もう二度と無いでしょう。
この恋だって、きっと実ることはないのでしょう。
それでも、このまま泡になって消えるくらいなら、いくじなしの自分を変えよう。
今、この瞬間に。

ニナは大きく息を吸って、まっすぐ彼を見つめると、今度こそはっきりと、王子さまに声をかけました。

「あなたが好きです。私の王子さま」