1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 | ああ、それにしても金がない。 雑居ビルに挟まれた駐車場へと歩きながら、俺は脳にこびりついた無意味な金勘定 をまたしても繰り返している。雨ざらし、鳥の糞ざらしのこの月極駐車場料金が都心としては破格の2万4千円。加えて自動車保険やらハィオクのガス代やらで、車の維持費だけで月5万はかかる。格安SIMにしたスマホ代が毎月3千4百円、光熱費は爪に火を点すように節約しまくって6千円弱、築40年のマンション代が5万6千円。 他、食費も教科書代もかかるし、服だって見映えがする程度には毎月何着か欲しくなる。バィトは二つ掛け持ちしているが、収入が支出にまるで足りていない。だからまず俺がやるべきは、この分不相応な赤いスポーツカーを手放すことなのだ——車に乗り込みエンジンをかけシーベルトを締め、俺は何度も考えてきたことをまた思う。 そう思いながらも、自分にはそのつもりが毛頭ないことも俺には分かつている。あくびをかみ殺しながら、どつしりとした木製のステアリングを切つて車を駐車場から出 す。今朝はなぜかやけに早く目が覚めてしまい、今はまだ午前六時だ。昨日の出来事以来、どうも胸騒ぎのようなものが肋骨の内側に居座っている。 雑司ヶ谷合にある大きな寺の脇道を、俺はゆっくりと車を走らせる。早朝の木漏れ日が、銀色の粉をまぶしたようにあたりにちりばめられている。赤いアルファロメオの車体は、その一粒一粒をキラキラと反射させながらアスファルトを滑っていく。通勤中らしき若い女性が、眩しそうな視線で運転席の俺を見る。 そうだ。俺は好きなのだ。東京——俺には全く優しくはないこの街を眺めながら、 この美しい車を走らせることが。他のどの場所にいるよりも、運転席で過ごす一人の時間に不思議と心が安まるのだ。それに今日のような時のためにもやはり車はあった 方がいいと、自分に言い聞かせるようにして俺は思う。昨日のあの女の子——鈴芽ちゃんと言ったか——あの子はたぶん、草太の行方を知っている。も、っ一度あの子に会 って、草太の居場所を訊き出すのだ。一方的に俺に心配ばかりかけ続ける草太を、今度こそ怒鳴りつけてやらなければ気が済まない。睨みつけるように通行人に目を走らせつつ、お茶の水方面に向けて俺はアクセルを踏んだ。 * * * 俺が宗像草太と出会ったのは一年半前の春、教育心理学のゼミの初日だった。 「なあ、あんたさ」 大学入学以来二年間ずっとオンラィン授業で、その日が初めての教室での対面授業だったのだ。その興奮と人恋しさで、俺は隣に座っていた男に授業後に声をかけた。 「教育実習もそのロン毛で行くの?」 「え? ああ」 ゆったりとした仕草で椅子から立ち上がったその男は、179センチある俺よりもさらに何センチか高かった。そいつは肩までの黒髪に手をやり、困ったような顔で俺を見た。切れ長の瞳に長い睫毛が影を落としていて、左目の涙袋の下には泣きぼくろがある。ものすごい色男だった。 「髪、切らないとまずいのか?」 素朴に驚いたような口調でそう返されて、俺は思わず笑ってしまった。金髪ピアスの俺のことを突っこませるための冗談だったのに、妙に生真面目なヤツだ。 「……まあ、悪目立ちはするだろうな。その時は一緒に髪切るか」 「そ、っだな、頼むよ」と穏やかな笑顔でそいつは言い、右手を差し出した。 「俺は宗像草太。よろしく」 「芹澤朋也。お互い呼び捨てでいこうぜ」 不思議と躊躇なくそいつの大きな手を握りながら、俺は実のところちよっと感激していた。ようやく出来た、大学での初めての友達だった。 俺が田舎の高校を卒業し、大学進学のために上京してきたその年に——嘘のような 話だが、新型感染症のパンデミックが起きた。重篤な風邪に似た症状を引き起こすという未知のゥイルスはあっという間に世界中を席巻し、日本でも小中高校が一斉休校となり、街中の飲食店はばたばたと休業していった。俺の大学でも入学式すら行われず、ひと月半遅れでようやく始まった学部の授業は全てオンラインとなった。まるで二流のSFのようなわけの分からない状況下で、俺の東京での一人暮らしは始まった のだった。 オンライン授業しかない大学では、当然ながら友達は出来なかった。外食どころか外出すら憚られるような日々だったが、生活のためにはアルバイトをぎゅうぎゅうに詰め込む必要があった。実家には俺の下にもまだ三人の弟妹がおり、長男の俺に仕送りをするような余裕は両親には無かったのだ。十力月近くの間、俺は歯を食いしばる ようにしてオンライン授業とコンビニと配達のバイトの繰り返しにひたすらに耐えた。 コンビニバイトは検温だ消毒だといった感染症対策ばかりで来店する客は少なく会話をする機会もないワンオペ業務で、配達のバイトは人通りの少ない巨大な都市を時間に追われてロードバイクで走り回るだけのどこまでも孤独な仕事だった。それでも耐えることが出来たのは、それなりに夢と希望と犠牲を伴って果たした上京だったからだ。俺には教師になるという夢があったし、世界はいずれ好転し回復するだろうと信じてもいたのだ。しかし年が明けて感染者数が激増するのを目にするにつれ、俺の中 の何かが途切れた。やってられるか、と、バイト明けのくたくたの体にやけくそでストゼロを流し込みながら、あるとき俺は思った。こんな馬鹿げた日々が何力月も続くわけはないと思つていたが、もしかしたらこの状況はまだしばらくは——ひょつとしたら何年も続くのかもしれない。上京してから体重が十キロ近くも減り、誰と将来を語り合えるわけでもなく、授業はネット動画を見ているのと変わらず、当然恋人など出来るはずもなく、世間は五輪開催の是非がどうこうとかいう心底どうでもいい話題に沸いている。必死に稼いだ金は、この街にいる意味が見いだせないのにバヵ高い家貧と生活費にただ消えていく。やってられるか。 だから俺は、コスパを求めてバイト先を変えた。その頃には都の要請に反して深夜まで営業を続ける夜の店がいくらでもあり、そのょうな店はおしなべて時給が高かった。池袋の繁華街にあるバーで、アシスタントとして俺は働き始めた。やってみれば、 夜の仕事は俺に向いていた。雑居ビルの五階にある狭い店内で朝まで大量にビ—ルを注ぎ、そのうちにジンフイズだのモスコミユIルだのといった簡単なカクテルを作らせてもらえるようになり、酒と煙草の味を徐々に覚えた。息苦しい感染症対策に嫌気が差している客はいくらでもいたし、俺としても、やスマホの画面越しではなく 誰かと対面して飲む酒はたまらなく楽しかった。自分が今までどれほど人に飢えていたのかを、染み込むような実感をもって俺は思い知った。その、っちにカゥンタ1越しに女性客の酒にも付き合うようになり、会話の転がし方と期待の持たせ方と失望の受け流し方を、俺は覚えた。 「芹澤、割のいいバイトを教えてやるよ」 大石という名の先輩が、特に俺を可愛がってくれた。三十手前で格闘家っぽいガタイの、人好きのする大男だ。ホストクラブの体験入店。会員制ポーカーハゥスでの黒服。何かの署名の代行記入。大石の紹介してくれるバイトはどれも怪しげだったが、 大学の課題が忙しくてバイト時間が確保できないような時期にはとても有り難かった。 やがて俺は、黒の短髪だった髪を金色に染めた。ピアスを開け、眼鏡には色を入れた。 単純に、その姿の方がバイト先で浮かなかったからだ。気づけば、上京してから二度目の秋が通り過ぎようとしていた。五輪はいつの間にか開催され閉会され——俺の生活にはなんの痕跡も残さぬまま、まるで最初から何事もなかったかのように消え去っていた。 大石から車を買わないかと持ちかけられたのは、東京のぼんやりとした冬が過ぎ、 桜が芽吹き始めた春休みの頃だった。感染症の流行は第六波だか七波だかに突入していたが、俺の周りでは気にしている人はもう皆無だった。 「お前も去年体入したことがあっただろ?ほら、歌舞伎町の、区役所の裏の。あそこの友達がさ、どうしても売り掛けを回収しなくちゃならなくて。40万。いや、35万でいいよ。なんてったってお前、ィタリア車のオープンカーだぜ?」 確かに相場よりはかなり安いが、それは十一年落ちのガタが来たマニュアル車だった。それでも結局、俺は30万でその車を買った。派手で見映えのする赤いスポーッカーは、自分が東京に暮らしていることにもうすこしくつきりとした実感を与えてくれるかもしれないと思ったからだ。車検代でさらに20万が必要となり、俺は大石にいくらか借金をして急場を凌いだ。もっと稼ぐことが必要だった。 やがて春休みが明けて俺は大学三年となり、今までオンラィンだった講義の多くがようやく対面授業となって、俺はゼミで草太と出会ったのだ。 「今までどうしてたんだよ、お前?」 夏。三週間ぶりにゼミに現れた草太に、俺は思わず声を荒らげた。出欠には厳しいゼミだったし、なによりも週に一度の草太との気の置けない会話は、ほとんど夜の街の住人となってしまった今の俺にとっては密かで健全なる楽しみだったのだ。 「ああ、ちよっと家業の手伝いがあってさ。……なんだお前、心配してくれてたの か?」 「そんなんじゃねえよ」と、俺は不機嫌さを上手く隠せぬままに言う。家業というのは草太のいつもの言い訳で、俺はどうもその内実に踏み込むことが出来ないままでい るのだ。訊いてくれるな、という空気を草太自身がまとってもいた。俺が三週間分の講義をまとめたPDFを渡すと、何でも好きなものを奢ってくれると草太は言う。 「つっても、しよせん学食じゃねえか」 食堂のテーブルに向かい合わせに座り、俺は笑って言った。窓の外には夏の光が溢 れ、蟬が命を謳歌するように鳴いている。草太も苦笑して俺に言う。 「金がないのはお互いさまだろ。今度俺の部屋に来いよ、もうちよっとマシなもの作って喰わせてやるから」 「まじか!」 上品な小金持ちが多いこの大学で常に金に困っている俺はどこか浮いた存在だったが、同じょうな経済状況の草太がいてくれることは救いでもあった。二人で学食名物の大盛りカツ丼を食べながら、俺は草太をちらりと盗み見る。たぶん古着だろうが、 ゆつたりとしたべージユのロングシャツが大柄の体軀に良く似合つていた。着古されて色の褪せた生地も、草太が身につけているとまるでなにかの肖像画のょうに美しく見える。それでも、こいつならば例えば下ろしたてのモードなシャツなんかを着せたら、そこらのモデルが廃業したくなるくらいものすごく似合うことだろう。 「……金がないならさ」と、何気なく俺は口に出した。 「割のいい稼ぎがあるんだ。俺のバィト先の先輩が紹介してくれたんだけどさ。興味ある力?」 「どうかな」と涼しげな声で草太は言う。俺はすこしだけむきになる。とつておきの情報でびびらせてやる。 「暗号資産って知ってるだろ?今めちやくちや高騰してるから、少額でも資産運用すれば必ず儲かる。知り合いの事業者のところだと、今月中に入金すればレバレツジが四倍で——」 「芹澤」 「ぁ?」 「お前、分かってて言ってるのか?」 「ぁ?」 微かに青みがかった深い瞳が、俺をじっと見つめていた。水の底みたいだな、と俺はふと思う。やがて諦めたょうに、草太は短く息を吐いた。 「それは詐欺だ」低い声でそう言って、草太は立ち上がった。 「そのバイトはもう辞めた方がいい。お前は自分の扱いが雑すぎる」 そう言い残し、草太は学食の出口に向かって歩き出した。一度もこちらを振り返らず、トレイの上のカツ丼は半分以上残したままだった。俺はただ呆然と、その背中を 見送ることしか出来なかつた。 * * * 一時間で800円もするコインパーキングに車を停めて、俺は草太の部屋に向かった。一階にコンビニの入った小さなビルの、三階の角部屋だ. 「草太、いるのか?鈴芽ちゃん?」 ドアをノックしながら声をかけるが、やはり返事はない。ドアノブを回すと、薄い木製のドアは手応えなく開いた。 部屋の中には誰の姿もなく、八畳ほどの書斎はめちゃくちゃに荒れていた。三つある本棚のうち一つの木棚が倒れ、畳には大量の本がぶちまけられていた。なぜ——とすこし考え、ああ、そういえば昨日は地震があったのだと思い出した。鈴芽ちゃんが突然どこかに駆け出していつてしまい、俺もこの部屋を出てから、しばらく後のことだ。一度だけ、大きな縦揺れがあったのだ。奇妙な揺れだったが、あのせいで本棚が倒れたのだろう。 俺は靴を脱いで書斎に上がり、本棚を元の位置に起こし、散らばった本を適当に収めていった。大学のテキストや教職の参考書に交じって、古い和装本が何冊も落ちている。他の本棚にもぎつしりと並んでいるこの種の本はきつとあいつの家業に関係したものなのだろうが、詳しく聞いたことはない。中身は崩し字で書かれていて、俺にはさっばり意味不明だ。半分ほど片付けたところで、ふと手が止まった。ここの片付けは——あの子の、草太とよく似た目をしたあの少女の役目なのではないか。特に理由もなくそんなことを唐突に思い、俺はそのことを自分でも怪訝に思いつつ、立ち上がって部屋を眺めた。何度も訪れたことのある、馴染みの場所だった。本に囲まれた隠れ家のようなこの小さな部屋で、俺たちはあいつの作った料理を食べ、二人で酒を飲んで、ささやかな夢を幾度も語り合ったのだ。一緒に教育実習の準備をし(結局、 お互いに髪は切らなかった)、実習明けはこの部屋で乾杯し、教員採用試験に向けた 勉強も重ねてきたのだ。それなのに、あいつは——。 「……待ってろよ、草太」 ふいに訪れた正体不明の寂しさを押し戻すように、俺は小さく口に出した。片付け を半ばで放置し、部屋を出る。この場所はもういい。再び車に向かうため、俺は早足 で歩き出した。 * * * 学食で草太と気まずく別れた翌日、俺は「ちよっと体調を崩しちやって」と唬を言って、バィトを休んだ。おいおいマジかよ、と電話口で大石は大声を出した。 「お前、まさかPCRとか抗原検査とか受けてねえだろうな? ……ああ、それならいい。もし受けても店には何も知らせるなよ。何にせよ二週間はこっちに来るな。ああ、それから例の入金だけど、お前まだ——」 「すんません、息が苦しくて」 噓の咳を絡めながらそう言って、俺は電話を切った。 それからの二週間、俺はほとんど部屋に引き籠もり、ひたすら自堕落に過ごした。 ネットの動画を際限なく眺め、腹が減ると米と缶詰を適当に食べ、オンラインの講義では画面も音もミユートにして裏でゲームをやった。出席が必要な授業とゼミはサボった。大学もバイトも続けるつもりではあったが、そのための気力がなぜか今はどうしても湧いてこなかった。そのくせ体は元気だったから、暇つぶしにスマホにマッチングアプリをインストールした。目に付いたプロフイールにひたすら「いいね」を送ってもほとんどマッチせず、飽き始めた頃に一人の女性から返信をもらい、食事の約束を取り付けた。渋谷の小綺麗なイタリアンレストランで対面したその人は、垂れ目がちで優しそうな雰囲気の美人だった。 「芹澤くん、めっちゃ若いよね。いくつ?」 「二十一っす」 「噓でしよ一!私たち一回りも離れてるよ!」 「え、じゃあ真菜さんって三十過ぎ?ぜんぜん見えねえ!」 ワィンを二人でずいぶん飲んで、互いに酔い、二軒目のバーでもカクテルとウィスキーで更に酔った。 「きみさ一、そんなチヤラついてて先生になんてなれんの?」 「チヤラいのは関係ないっしよ」と俺は笑った。彼女にせがまれて、俺は教育学部と書かれた学生証を見せていた。 「俺、弟妹が多いから、子供に何かを教えるのって得意なんすよ。相手の出来が悪くても気になんないし。むしろそっちのが好きだし」 「おお、意外にいいヤツだにや一朋也くん」 真菜さんはろれつの怪しくなった口調で、俺の背中を撫で回しながら笑う。 「でもな一、最近なんかちよっとにや一……」 俺もろれつが回っていない。やけに近くに見えている、ぼんやりと発光するような 白い類に向かって、俺は尋ねた。 「にやんか不安な時とかさ一……、寂しい時とか、真菜さんってどうしてんの?」 「え一?」天井に息を吐きかけるようにして、彼女は低い声で笑った。 「寂しい時なんてないけどな、私は」 すげえ、と素直に俺は思った。草太は、あれからずっと連絡をくれていない。送ったLINEにも既読は付かない。寂しい時なんてない。そういう人間もいるのだ。すげえ。もしかして俺がおかしいのか。俺だけが無駄に寂しがっているのか。 バーの店員に肩を強く揺すられ、いつの間にかヵウンタ一につっぷして眠ってしまっていたことに俺は気づいた。店には他に誰もいなかった。支払いはお連れさんが済 ませたょと、無愛想な店員が教えてくれた。礼とお詫びを伝えなければと、二日酔いの吐き気と頭痛の中で俺はアプリを起動した。彼女にブロックされていることに、そこで俺は気づいた。彼女の本名も他の連絡手段も、俺は何も知らないのだった。 二日酔いだと思っていた頭痛はしかし、本物の体調不良だったょうだ。やけに体が火照ると思って熱を測ったら38度もあり、あっという間に喉もずきずきと痛み出した。 その翌日に跗度近くまで上がった体温計を見て、これはただの風邪じゃない、と俺は思った。十中八九、例の感染症だ。しかし大石に従うわけではないが、今さら病院に行く気にはなれなかった。uberで大量のスポーツドリンクとゼリー飲料とレトル卜のおかゆを届けてもらい、俺はそのまま部屋に籠もった。真夏なのに寒くて寒くて仕方がなく、俺は歯をガチガチと鳴らしながら押し入れから毛布を引っぱり出し、それにくるまって目をつむった。浅い眠りの合間にゼリーを飲み、部屋にあった解熱剤を適当に飲んだ。しかしそれから二日経っても三日経っても、熱はほとんど下がらなかった。 お前は自分の扱いが雑すぎる。 遠くで誰かが言っていた。 寂しい時なんてない。 遠くで誰かの声がした。 これは罰だ——と俺は思った。何に対してかはょく分からないが、これはきっと罰なのだ。俺には金がなく、未来もなく、思いやりも誠実さもなく、だから友達もいなかった。寂しい人が寂しくないと言った時、それに気づける優しさもなかった。正しくない行いを目にした時、それに意見する勇気もなかった。上京して必死に生き抜いてきたつもりなのに、手に入れたのは借金だけだった。もぅ楽にしてくれょ、と俺は思った。神でも仏でも総理大臣でも、誰でもいい。いいかげん俺たちをもぅ、楽にしてほしかった。 その時、何かを叩く音がした。 俺は毛布から頭を出した。音は玄関からだ。誰かがノックしているのだ。 「芹澤、いるんだろ?俺だ、宗像だ」 マンションのドアを開けると、大きなリュックを背負つた草太が立っていた。 「なんだ序澤、風邪か?入るぞ」 俺を見て驚いたように言いながら草太は泥の付いたワークブーツを脱ぎ、勝手に部屋に上がり込んでくる。「換気するからな」と言って窓を開ける。 「おい、ちよつと——」 「お前ちよっとやつれたな。寝てろ。美味いもの作ってやる」 「おい草太、出てけよ。コロナが感染る」 草太は笑って、俺の額に手を被せた。 「大丈夫、お前のはただの夏風邪だよ」 「はあ?」 「大丈夫だよ、芹澤。俺には分かるんだ」 馬鹿みたいに優しい顔で草太にそう言われ、俺は何も言い返せなくなってしまった。それから草太は俺をベッドに追いやり、ほとんど空の冷蔵庫に愚痴を言いながらス一パ一へ買い物に出かけ、戻ってくると何やら料理を始めた。 「草太、お前どうして……」 「お前に連絡したけど、返事がなかったからな」 俺の枕元には、とっくにバッテリーが切れたスマホが転がっていた。 「家業の手伝いがあってさ」と、野菜やら肉やらを切りながら草太は言った。 「お前からのLINEに返信できなかったんだ。心配かけて悪かったな」 「別に……」思わず声が詰まった。包丁がまな板を叩く音、湯が煮える音が、控えめなBGMのょうに部屋を満たしていた。 「さあ、一緒に喰おうぜ」 片付けたテーブルの上に草太が置いたのは、白い湯気を上げるつみれ鍋だった。真夏に鍋か、と苦笑しながら俺は箸を伸ばした。長ねぎがたっぶりと入っていて、鶏のつみれにはびりっと生姜がきいていた。食欲などなかったはずなのに、食べ始めると 止まらなくなった。しばらく無言のまま、俺たちは鍋をつついた。みるみる汗が吹き出してきて、油断すると鼻水と涙までが垂れてきそうだった。タオルで顔を拭いながら草太を見ると、同じょうに汗だくになつていた。 食事の後、俺は全身の汗を拭き、下着とシャツを新しいものに替えた。冷たいレモネードを草太から手渡され、ごくごくと二杯続けて飲んだ。草太は「シャワ一借りるぞ」と言って浴室に行き、出てきたときには勝手に俺のTシャツを着ていた。「悪い、 これちょっと貸してくれ。俺のシャツも一緒に洗濯させてもらつていいか?」やめてくれと言ったのに草太は洗濯機まで回した。 窓から吹き込む風が、俺の肌を気持ち良く撫でていた。喉の痛みはいつの間にか弱まり、ずっと薄暗かった視界はくっきりと開けていた。体温計を使わずとも、自分の熱がずいぶん下がっているだろうことが分かった。こいつは魔法でも使えるのか、と 俺は一瞬本気で思った。 「鍋の残りは、夜には雑炊にすればいい。喉が楽になったからってまだ煙草なんて吸うなょ。明日また見に来る」 玄関で靴紐を結びながら、草太は俺にそう言った。 「ああ……。あのさあ、草太」 「ん?」 俺の赤いシャツを着た背中に向かい、俺は思いきって尋ねた。 「お前の抱えているものって、何なんだ?」 草太は立ち上がり、すこしだけ眩しそぅな顔で、俺を見た。俺は言葉を重ねる。 「その家業ってやつのこと、話せないのか?」 「……いつか聞いてくれるか?」 泣き出しそうにも聞こえる切ない声で、草太はそう言った。 * * * 御茶ノ水駅前の車寄せに、俺は車を停めた。 通勤ラッシュのピーク時間を迎え、改札にはひつきりなしに人が出入りしている。 ホームの発車べルと電車がレールを滑る金属音が、朝の鳥の声に混じって途切れるこ となく耳に届く。俺はハンドルに両腕を乗せそこに顎を乗せ、通り過ぎる人々の顔を検分するように眺めている。 去年の夏の終わり、ようやく熱が引いて回復した頃。一ヵ月の欠勤を気まずく思いながらも池袋のバーに行くと、店は消えていた。ドアには何の貼り紙もなく、嵌め殺しの窓硝子から中を視くと、狭い店内からは酒も食器も全てなくなっていた。そしてよくよく周囲を眺めてみれば、その雑居ビルにも周囲の建物にも、ずいぶんと空きテナントが増えているのだった。それから俺は大学の学生課に通いつめて家庭教師のア ルバィトをなんとか手に入れて、以前から時々続けていた配達のバィトと合わせ、ぎりぎりで生活を成り立たせている。それにしてもいつでも金はないけれど。 ふいに、バックミラーの隅を何か白いものがよぎった。 ——尻尾? 猫か?こんなところに?思わずあたりの地面を見回すが、どこにも動物の姿な どはない。気のせいかと思い直し、顔を上げたところで、バックミラーの中を歩いてくる少女の姿に目がとまった。昨日とは違って制服姿ではあるけれど——間違いない、 鈴芽ちゃんだ。まっすぐに顔を上げて、強い足どりでこちらに向かって歩いてくる。 その表情と歩幅から、俺は確信する。 この少女は、草太のいる場所に向かうつもりなのだ。事情は分からないが、彼女も たぶんあいつの家業に関係しているのだ。 待ってろよ、草太。俺は口の中でそう繰り返す。「いつか聞いてくれるか」と言っ た、あの日の切実な声を思い出す。つかのまに揺れる水面のように、あいつの瞳に寂 しさがよぎったことを俺は今もくっきりと覚えている。 「鈴芽ちゃん!」 俺は声を上げた。草太とよく似た目をした 俺には見えないものを見つめているよぅな——ポニーテイルの少女が、立ち止まり睨みつけるよぅにして俺を見た。 あとがき この掌編は、僕が監督した映画『すずめの戸締まり』に登場する芹澤という男性を 語り手とした、スピンオフ小説です。 芹澤のスピンオフ小説を書くことになるとは、当初は思ってもいませんでした。 もちろん、芹澤は重要なキヤラクターではあります。映画のミツドポィント(映画 のテーマが切り替わる、時間軸上の中心点)付近で登場し、鈴芽を東北まで連れてい き、その道行きを笑える楽しげなものにしてくれます。しかし芹澤は、映画『すずめ の戸締まり』において唯一「当事者」ではない人物です。鈴芽には向き合うべき過去 があり、草太には立ち向かうべき役目があります。千果やルミといったキヤラクターたちも、しっかりと自分の人生を生きています。芹澤だけが未だモ かにいて、人生の手前で足踏みをしています。どこか軽いキヤラクターなのです。だ から、映画の外側での彼を描く必要は、特にないと僕は考えていました。 しかし映画公開後、芹澤は(一部で)たいへんな人気となりました。声を担当して くれた神木隆之くんの熱演のおかげもあると思います。芹澤のことをもっと知りた いという嬉しいご感想にお応えする形で、僕はこの掌編を書くことにしました。思え ば、「当事者」ではない芹澤は、観客である我々に最も近しい人物です。だからこそ、 彼はあの風景を「綺麗」だと言う役割を与えられたのです。でもそれだけではなく、 彼の善良さや健気さは、僕たちが憧れる得難い資質でもあります。それが育まれたの であろう過程の一端を描くことが出来たのは、楽しい経験でした。 観客の皆さんが、これからも『すずめの戸締まり』の世界を楽しんでくださること, を願っています。 |
Direct link: https://paste.plurk.com/show/Rmamwk1r3fql7vx7Z4lz