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むかしむかし、あるところに、帽子屋のマットと、舞台女優のロレーナがおりました。
 ふたりは子どもの頃から愛し合う仲です。生活は貧しくても、ふたり一緒ならそれだけで幸福でした。
 しかし、身分の低いロレーナがこんな時代に舞台女優を続けるには、裕福な貴族の愛人[クルチザンヌ]になるしかありません。
 ある雨の夜、ふたりで将来について話し合いましたが、なんとも悲しいことに、ふたりはお別れをすることになりました。ロレーナが、愛よりも夢を選んだのです。
「彼女が幸福になれるのならいいんだ。これで良かったんだ……」
 マットは自分にそう言い聞かせながら、彼女を忘れて仕事に没頭しました。

 そして10年が過ぎたある日、彼は見てしまったのです。人気女優として輝くロレーナと、その小さな娘アリシアの姿を。
 あらゆる幸福を手にしたロレーナとは対照的に、自分はずっと孤独な、だたの帽子屋……そんな現実を突きつけられたかのようでした。
 マットは激しく後悔しました。どうしてあの夜、愛を選んでほしいと素直に彼女を引き止めなかったのでしょう。
 10年という時間は、過ぎてしまえば一瞬のようですが、取り戻すにはあまりにも長く遠く残酷なものでした。
 マットが途方もなくさまよっていると、傷だらけで倒れている謎の男に出会いました。
 その男は助けてくれたお礼として、ふたつの奇妙な品を差し出しました。
 時間を巻き戻す”シロップ”と、愛を求める"ネックレス”。このふたつの魔法があれば、ふたたびロレーナと幸せに暮らせるというのです。
 マットは半信半疑でしたが、Drink Meの札がついた”シロップ”を口にしたとたん、世界が反時計回りにぐるぐると動き出し、あっという間に景色が一変してしまいました。気付けばそこは、ロレーナとお別れしたあの雨の夜。10年前の7月21日です。
 マットは当然、彼女の家を訪ねます。そして”ネックレス”を贈り、初めてのプロポーズをしました。ロレーナが喜んでネックレスを身に着けると、その胸元に大きな薔薇が咲き、しばらく苦しんでいましたが、やがてマットの言葉に優しく頷きました。
 ロレーナが、今度は夢よりも愛を選んでくれたのです。

 それから10年間、マットとロレーナは夫婦として、幸せに暮らしました。
 そんなある夜、扉の向こうから女の子の声が聴こえてきました。
「ねぇ、いつものママはどこ?」
 ロレーナには聞き覚えのない声ですが、どこか不思議な感覚がしました。
 もちろんマットはよく覚えています。それはロレーナの娘、アリシアの声だったのです。
 しかし、マットがこの10年を塗り替えたため、あの娘は生まれなかったのですから、本来ここにいるはずがありません。
 どういう訳か、あの娘もマットと同じように、どこかの時間の穴から転がり落ちて、この”不思議の国”に迷い込んでしまったようです。
 マットは嫌な予感がしました。はやくこの娘を別の時間に送り飛ばさなければ、10年のすべてが夢のように醒めてしまうかもしれない。彼は慌てて扉に手を伸ばします。
 すると無意識に娘の危機を感じたのか、ロレーナが泣きながら立ちはだかりました。
「やっと生まれた娘なんです……私のただひとつの宝物なんです……どうか、どうかこの子だけは助けてください」
 マットは驚きました。”シロップ”と”ネックレス”の魔法は、人の意志などでは決して抗うことのできない絶対的な力のはずです。
 それでもロレーナが逆らえるのは、生まれや時間さえ飛び越えて、魔法すら振り払ってしまうほどの、娘を想う母の愛。そうとしか言いようがありませんでした。
 マットの愛は、またしても選んでもらえませんでした。それでも扉を開けようとするマットに、ロレーナは――

 ネックレスのようなおかしな鍵を見つけたアリシアは、ゆっくりと扉を開けてみました。
 すると、目の前に真っ赤な光景が広がります。そこで見たものは、男の心臓にナイフを突き立てる、恐ろしいお母さんの姿でした。
 アリシアが呆然と立ち尽くしていると、男の人は心臓を刺されたまま気が狂ったように笑いはじめ、アリシアを連れ去るように歩きだしました。
 遠くでお母さんが何かを叫んでいるようですが、アリシアにはまったく聴こえません。
 やがて男の人は胸元からシロップのようなものを取り出すと、アリシアに飲ませようとしてきました。アリシアが必死に逃げ回っていると、戸棚にぶつかったはずみでEat Meと書かれた”クッキー”が落ちてきました。アリシアはハッと思い出したようにそれを拾うと、あわてて食らいつきます。そのとたん、世界が時計回りにぐるぐると動き出し――