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對於網路上常見的日本識字率高到7,80,而清朝時的中國識字率低到1%之類的文章,我是不信的,因為識字率這個調查當時並不嚴謹,可能也無法像現代有詳盡的調查。

光是定義識字率就很困難,就網路查到的,識字率大概分幾個判準,最好調查但可信度最低的是「有沒有辦法寫自己的名字」,接著是「能否應付記帳等生活需求」,接著是能否「看懂朝廷公告」,或所謂的「粗通文墨」(當然,什麼是粗通文墨又不好定義)。

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日本的資料比較好查,先看日本識字率高達70%以上有沒有摻水

日本的寺子屋在江戶時代很發達,很多人就直接以此推測當時的識字率,這當然不準,畢竟受過基礎教育並不代表「一定學成而有讀寫能力」。

中文的維基百科在「寺子屋」這一條下了個評論:江戶時代嘉永年間(1850年)日本的入學率在70~86%之間,相比英國20~25%(1837年),法國1.4%(1793年),蘇聯20%(1920年)要高出許多。這樣高的識字率也是明治維新以後日本能快速進入已開發國家行列的原因之一。

中文維基在底下直接用「高入學率」的概念去推判「高識字率」,然後定論「高識字率是明治維新以後日本能快速進入已開發國家行列的原因之一。」

日文維基的資料比較多,也較嚴謹,轉到寺子屋的日文維基,他們是這樣敘述的:

江戸期に寺子屋による学問の指南が一般町人の間に定着しており、江戸時代ないし明治初期における日本の都市部の識字率は世界的にも高い水準にあった。江戸における嘉永年間(1850年頃)の就学率は70-86%といわれており、イギリスの主な工業都市で20-25%(1837年)、フランスで1.4%(1793年)、ロシア帝国時代のモスクワで20%(1850年)などの外国に比べ就学率が格段に高かった[8]。ただし、この統計はヨーロッパ人が日本人よりも学識に劣っていたというわけではなく、ヨーロッパは日本よりも家庭で勉強を教える習慣が色濃く存在していたことを留意する必要がある。イングランドでは1831年の時点で男66%、女50%、さらに未就学児童を含めた全人口の3割が読書人口、つまり自分の姓名の筆記以上の複雑な文書を理解していたことになる。

大意是說,日本明治時期的就學率在當時排名世界前列,遠高過英、法等列強,但這並不能證成日本的普遍學識強過歐洲,因為歐洲家庭請家教的習慣較普遍。最後提到英國在1831年,包含未就學兒童一起算,全國有三成人口是讀書人,也就是說有三成人口能處理比簽名更為複雜的文字訊息。

另外,「寺子屋」的日文維基又列出更詳盡的識字率相關的調查:

識字率、就学率は必ずしも均一ではなく、確実な名簿の残る近江国神崎郡北庄村(現・滋賀県東近江市宮荘町)にあった寺子屋の例では、入門者と人口の比率から、幕末期に村民の91%が寺子屋に入門したと推定され、1877年に同県で実施された調査では「6歳以上で自己の姓名を記し得る者」の比率は「男子89%、女子39%」である。一方で鹿児島県や青森県では格段に識字率が低い水準にあった。また、1881年に長野県北安曇郡常盤村の自著しうる者64.3%の内訳は自己の氏名・村名のみを記し得る者が63.7%、日常出納の帳簿を記し得る者22.5%、普通の書簡や証書を自書し得る者6.8%、普通の公用文に差し支えなき者3.0%、公布達を読み得る者1.4%、公布達に加え新聞論説を解読できる者2.6%となる。したがってこの調査では、自署できる者のうち、多少なりとも実用的な読み書きが可能であったのは4割程度である[10]。

引用不同地點、不同時間所做的統計,1877年近江国神崎郡北庄村做的統計,6歲以上村民,「能寫自己名字」的比例是男子89%、女子39%。

1881年に長野県北安曇郡常盤村做的統計更詳細,能寫自己名字與村名的村民佔64.3%、能寫簡單文書的、能處理日常出納帳簿的約佔22.5%、能處理普通書簡的約佔6.8%、而能應付普通公文的約佔3%、能讀懂布達公文的約佔1.4%、而能讀懂布達公文並解讀新聞論說的約佔2.6%。

總而言之,雖然「維基的資料可能還不夠有公信力」,主要是想強調「要論斷一整個國家的識字率是很難的」,資料可能分散而不全面、而識字率的定義也不好對齊。

再一步講,進寺子屋根本就不代表能識字,兩者「差遠了」。

很多人會以江戶時代寺子屋的平民教育之普及來推斷日本當時的識字率,關於這點,有一位名叫八鍬友広的教授說:「為了從識字史的側面來考察寺子屋教育,必先探討寺子屋這樣的機構能否增進日本國民的識字率,但實際上,要正確地探明這個問題是不可能的。」

(寺子屋教育を、識字史の側面から考察するために、まずは寺子屋というも のがどのような識字力をもたらしたものだったのかということが検討されな くてはならないだろう。 しかし、このようなことを正確にあきらかにすることは実際には不可能で ある。)

八鍬友広說,要探討個問題,必須瞭解近代以前社會現象是十分多歧多樣化的,居住地的不同、身分的不同都會有不同狀況。「並不是說,接受了寺子屋教育就有良好書寫能力」

八鍬友広舉了幾個文獻來考察一些地方的寺子屋教育現象,比如陸奥國岩手郡篠木村的寺子屋師匠的「俗言集」、山口縣玖珂郡役所在1890年編纂的「山代誌」。這些書或多或少指出當時教育的困難。

其中八鍬友広寫到:「山代志」的作者武田三右衛門在書中反映出的教育困難,絕對不是當時的特例。(武田三右衛門の「俗言集」に書かれていたような教育困難な実態は、決して特別なものではなかったことがわかる。)

「山代志」中說:即便受過教育,大多數人僅能書寫人名與村名,而能寫一般信件的人大概就「十個人中僅一人」,由此可見,寺子屋的學習效果是十分有限的。

(たとえ教育を受けたとしても、人名や村名などを書くにとどまり、普通の手紙を書けるようになるものは十人のうち一人ぐらいにすぎないというのである。ここでも、寺子屋における学習の効果が、きわめて限定的であることが示されているのである。)

八鍬友広又說,當時人的書寫能力不僅止於寺子屋,在往後職業需求上的訓練、養成也很重要。

(要するに、寺子屋における学習だけでなく、その後の職業生活へと継続していくかどうかが、読み書き能力の形成にとってきわめて重要なものであったということが示されているのである。)

總結上述,應該可以推測,古代日本人不像現代人一樣必須經常讀、寫國語,所以當時的國語的運用狀況大概就像現在的英文,就算大家從小都學過,但長大沒有經常使用,英文讀寫能力仍然很陽春。

最後,所謂的「識字率」是怎麼測的?

教授舉出的明治時代的識字率調查,寫明了是用「自署率」,也就是「能否寫出自己的名字」,這種調查是最簡單的,也是最沒公信力的,畢竟會寫自己的名字與所謂的「識字」差太遠;但後人不察,就直接把自署率與識字率畫等號。

資料來源: file:///C:/Users/user/Downloads/0386-0663-2018-45-199.pdf

再來看中國識字率

探討中國識字率更困難,因為中國幅員廣大,而且當時不像歐美日等列強能做出詳盡的統計,所以,網路上流傳的識字率數字「很多是用推估的」,而這個推估可能是失真。

比如以童生數量去推估識字人口,看有多少童生人口,然後去估「中選/落選」之比,用這個比例乘上童生數量得到清代識字人口。但這個「中選/落選比例」人言言殊,不知誰比較準確;而且,投入官場考試的總人數也不一定能如實推算清代有多少人識字,因為可能有些領域的人也會學讀寫以應付生活需求,比如商人、出身書香世家的女性等等。

資料來源:https://crlhd.xmu.edu.cn/8c/48/c11761a298056/page.htm

對於清代識字率的推估有兩大極端,兩者「看似」都不靠譜:

1.美國日裔學者RAWSKI Evelyn推測清代中晚期男子的識字率約在30~45%之間,而女子是2~10%之間。而所謂的識字,學者定義寬鬆,從精英階層到認讀數百字的水準都被視為識字。而照這個寬鬆的標準,學者認為當時平均每個家庭有一個人識字。

(Information from the mid- and late nineteenth century suggests that 30 to 45 percent of the men and from 2 to 10 percent of the women in China knew how to read and write. This group included the fully literate members of the elite and, on the opposite pole, those knowing only a few hundred characters. Thus loosely defined, there was an average of almost one literate person per family.)

資料來源:http://pages.ucsd.edu/~dkjordan/cgi-bin/moreabout.pl?tyimuh=chineseliteracy

2.
据1909年学部的第三次教育统计,当年全国在校学生数不过100多万, 加上各省简易识字学塾和私塾的学生,以及原科举制下受过旧学教育的人口,粗通文墨者总数仅约300万左右。以清末全国4亿人口为基数,5 %的识字率应为2000万人,与实际数相较,还有近1700万人需要在短期内突击扫盲,才能达到清政府规定的指标。后来清廷迫于各方压力,又将实行宪政的期限提前至1912年,迅速普及教育更加迫在眉睫。

資料來源:https://www.1xuezhe.exuezhe.com/Qk/art/149192?dbcode=1&flag=2